農業への思い~ブログからの転載です~


自分はどんなお茶をつくっていきたいか?(2010年8月21日)

 先日、武蔵野市の林公恵さんという方からお便りをいただきました。

 「暑い日が続いております。18日にお茶が届きました。有難うございました。・・・私は、夏はフェアリーのお茶のほうが軽くて好きです。寒くなると銀河のお茶のほうが身体が喜ぶような気がします。両方とも気持がやさしくなれるお茶です」

 ※フェアリー幸せ緑茶は“やぶきた”という品種を主体としており、銀河幸せ緑茶は“おくみどり”という品種を主体としているため、味や香りに若干の違いがあります。

 ごく短いお便りですが、これを読ませていただいた時、心がじーんと温かくなりました。
きっとそれは、「気持がやさしくなれるお茶です」というお言葉が心に響いたからだと思います。

 勤めをやめて自然農のお茶づくりに取り組むようになってから、「自分はどんなお茶をつくっていきたいか?」という問いかけがいつも心のなかにあります。
 それは単に「農薬や肥料を使わない安全なものを」ということだけではなく、本当に心から満足できるようなテーマをお茶をとおして追求してみたいという気持ちがあるからだと思います。

 そして、その出発にあたり、自分のなかに浮かんできた言葉は「飲んでくださるみなさんに身も心も癒されて幸せになっていただけるお茶」ということでした。

 そんな願いとお茶の役割(効果)をどの程度お届けできているかはまだ未知数ですが、林さんの「気持がやさしくなれるお茶です」というお言葉は、自分の目標を素晴らしい言葉で表現していただけたものでした。
改めて自分の原点が明確になったような気がしました。

 ところで、お茶についての日本最古の古典『喫茶養生記』(栄西禅師 1211年)には、次のように書かれています。
 「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。山谷に之を生ずれば、その地神霊なり。人倫之を採らば、その人長命なり。古今奇特の仙薬なり」
 これが書かれたのがちょうど800年前のことでした。
 昔の方は、お茶のもつ効能について、今よりもっと深い認識をもっておられたのでしょうか?何かより高い次元で、お茶の役割を捉えられているような気がします。

 今のお茶は、肥料や農薬の与えすぎで本来のパワーが失われているといわれています。
 特にそのことは“香り”に現れているようです。
 その点では、お茶が本来もつ生命力の発現としての香気をどのように取り戻していくかということも、これからの大切な課題だと言えると思います。

 もうすでに亡くなられていて残念ですが、常茶研究家として活躍された小川八重子さんという方の著書を最近何冊か読む機会を得ました。
 常茶とは日常飲むお茶という意味で、毎日気軽に美味しく何杯も飲めるお茶のことです。そういう点から、昔ながらの在来種のお茶やその地方その地方で培われてきたお茶、また番茶などの良さを見直していこうという提案がされていました。

 またこの方は、“本当に美味しいお茶”を生涯をかけて追及され、その神髄をつかまれた方のようでした。そのことは、晩年になって書かれるようになった“常茶から浄茶へ”という言葉によく表わされているように思います。
 “浄茶”とは、浄化のお茶、魂の浄化へと繋がるお茶とでもいえるものでしょうか。
お茶の本来の在り方として、“常茶”のなかに“浄茶”の姿を見い出していかれたことに深い感銘をうけました。

 まだまだお茶づくりの世界は奥深いもののようです。

 自分はどんなお茶をつくっていきたいか?そのためにはどんなことが大切か?
 いつも原点に立ち返りながら、栽培面や加工面、また様々な面において、より深く考え、実践し、工夫していければと思います。
 

岩茶~お茶の原点をもとめて~(2010年9月5日)

自分はどういうお茶をつくっていきたいか?」「お茶の原点とは何か?」と考えていた時、図書館で『岩茶』という本を見つけました。

 これは、日中文化交流サロン「岩茶房」を主宰されている左能典代さんの著書で、手にとり読み出したら、ぐいぐい引き込まれていく興味深い内容がいっぱい詰まった本でした。

 岩茶とは、中国の福建省北部にある武夷山の岩山に生育するお茶のことです。武夷山は、36の奇峰と99の奇岩をもち、中国でも有数の名所であるとともに、昔から神仙が住む山と言われてきました。

 この岩山のミネラルと、太陽の光と、霧と、山の水だけを吸って育ったお茶が岩茶です。
この岩茶は、甘味、酸味、旨み、渋みなどのバランスが非常によくて美味しく、人体に有効なミネラルやビタミンなどを豊富に含み、薬効の面でも優れたお茶だと言われています。中国では、唐や宋など、歴代の皇帝や貴族が愛飲し、現代でも一部の人しか飲むことのできない大変高価なお茶として珍重されています。

 この岩茶と呼ばれるお茶の興味深い点は、栽培面では、人間はほとんど手をくわえず、ほぼ自然のままの状態で育つ茶樹から、毎年春~初夏に一度だけ新芽を摘み取って、それをお茶(ウーロン茶)に加工しているという点です。

 特に、肥料を与えたり、岩山から畑に移したり、年に何度も収穫したり、といったことが行われていないことが重要な点だと思われます。

 私も、自然農や、スリーエフ(無農薬・無肥料・無堆肥)農法に取り組むようになってから、作物の育つ様子を見たり、できた収穫物の風味などを味わいながら、作物本来の力を引き出すうえで、“肥料を与えない”ことが大切な要素となっているのではないかと感じるようになりました。

 特にお茶の場合は、収量の多さと、品質の良さ(高く売れること)を追求するあまり、過剰施肥ともいえる多肥栽培となっています。それが、「養生の妙薬」と言われるお茶の効能を減じたり、かく乱する結果になっているのではないでしょうか。

 植物は本来、自分の生育に必要な要素は自らの力でつくりだし、環境と調和したメカニズムのもとで、自分なりの(自分にあった)成長のし方をしていくものだと言えると思います。

 植物の立場にたって考えてみた時に、そういう自分なりの成長のし方のほうが、その植物にとっては心地よいし、あるいは喜びに満ちていると言えるかもしれません。

 それが、栽培する人間側の目から見た場合、きわめて貧弱であったり、品質が悪そうに思えたりするため、今の農業では、人間の勝手な判断から、必ずしも植物が求めていない世話をしてしいる面があるように思います。

 もちろん、肥料を与えたり、剪定をしたり、品種改良をしたりといった様々な農業技術をすべて否定するわけではありません。しかし私自身は、もっと植物の身になって、植物の本当の幸せな成長を願う立場にたった農業のあり方について考え、それにそった農業技術の見直しをしていくことが大切だと思うのです。

 さて岩茶ですが、今も岩茶本来の風味や力を失わないために、自然な状態を維持するための管理がしっかりと行われているようです。
 そして、お茶の葉を摘み取る日や、加工のし方など、様々な点でお茶と対話をしながら作業がすすめられているとのことです。

 このことも大変重要なことだと思います。植物との会話は可能であり、人間と植物はもっと理解しあいながら、作物を育てていくことができるのだと思います。

 そして、そのようにして育った作物は、今までには発揮してこなかった、もっと大きな効能を人間にもたらしてくれるようになるのだと思います。

 岩茶は、非常に特殊なところに育ち、その価値が昔から認められてきたお茶であったため、その本来の生育環境や自然な姿を尊重されてきました。そのおかげで、今も「養生の妙薬」としてのお茶の真価が保たれ、現在に伝えられています。

 このことは、これからの農業や、自分なりのお茶づくりを考えていくうえで、大変参考になることだと思います。



抹茶はすぐれもの、そして楽しい飲み物!(2010年9月21日)

 私の住む京都府和束町は、宇治茶の主産地で、お茶の生産額が府内の半分近くを占めるというのが自慢の町です。

 子供の頃は、町で何かの行事があるごとに、♪和束良いとこ 煎茶の本場 色も香りも 味も良い♪という曲(和束音頭)が聞こえてきて、知らず知らずのうちに 和束は煎茶の町だという認識がしみ込んでいました。

 ところが最近、ある情報誌を見ていたら、和束町は“抹茶の生産量が日本一”と書かれていたので、びっくりしました。

 いつの間にか、和束町では、抹茶の原料となる碾茶(てんちゃ)が多く生産されるようになり、今では日本一の生産量を誇るまでになっていたのです。

 私としては、このことは、これからのお茶づくりを考えて行くうえで、何らかの示唆を与えてくれているような気がしました。

 やはり、時代のニーズは、一つは抹茶の方向を向いているようです。

 そんなことで、今年は、京都なごみ園としても抹茶をつくることにし、「石うす挽き抹茶」という商品名で販売させていただくことになりました。

 そうしたら、たくさんの方から“甘味があって まろやかで美味しい”とご好評をいただくことができ、ある方からは、“これまで無農薬の抹茶をいくら探しても手に入らなかったのに、こんなに美味しい抹茶をつくってもらえて非常に嬉しい”と、喜びのお声をいただくことができました。
 私たちとしても、本当に有難いことと、感謝しています。

 お茶には、健康に良い成分がたくさん含まれています。そして、抹茶として飲む場合は、そのすべてを体内に取り入れることができます。

 一般的には、茶葉に含まれるカテキンやビタミンCなど水溶性の成分は35%程度で、残りは不溶性であると言われています。その不溶性の部分には、βカロチン(ビタミンA)やビタミンE、クロロフィル、タンパク質、食物繊維など優れた栄養素が多く含まれているのですが、通常の煎茶の飲み方では、これらをお茶ガラとして捨ててしまっています。
 これは、やはりもったいないことです。

 ところで、お茶の歴史を見てみると、茶葉のすべてを“飲む”飲み方が意外と古い歴史をもっていることがわかります。

 まず、世界最初のお茶の専門書である、中国の陸羽が書いた『茶経』(760年頃、唐の時代)という書物では、最も薬効のあるお茶の飲み方として磚茶(だんちゃ)が紹介されています。

 磚茶とは、お茶の葉を蒸してつき固め、丸めて天日で乾燥させてつくったお茶です。飲む時は、それを火にあぶって砕き、薬研で粉末にし、お湯を注いで飲んだようです。
 これは、まさしく“すべてを飲むお茶”で、抹茶の前身と言えるものでした。

 わが国においては、お茶の導入と普及に最も貢献されたのは栄西禅師でした。

 栄西禅師が鎌倉時代の初めごろ(1191年)に宋から帰国し、そこで学んできたお茶の栽培法や飲み方などを伝えたことが、その後の日本でのお茶文化の発展の基礎となっています。

 その著書『喫茶養生記』(1211年)では、「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり」とその薬効がきわめて優れたものであることが述べられています。
 そして、ここで紹介されたお茶の飲み方は抹茶方式でした。

 わが国では、この抹茶方式の飲み方が、その後に茶の湯の文化として発展していくわけですが、健康に良い飲み方という面でも、それは素晴らしいことであったと言えると思います。

 ただ、作法が高尚であることや、抹茶が高価なものであること、その他さまざまな理由で、一般にはあまり普及してこなかったと言えると思います。
 しかし、もう一度原点に帰って、茶葉のすべてを“飲む”飲み方の優れた方法として、この抹茶方式にもっと光をあてていくことは、すごく大切なことであると思います。
 
 今年(2010年)の春に、妻典子の10数年来の念願であった「里山の家」が完成しました。それは、和束町別所の小高い丘の上にたつ小さな木の家で、京都なごみ園の自然農のお茶畑や田んぼを見渡せる緑豊かな場所にあります。

 交通の面では少し不便ですが、ここに少しずつ、お客様が来てくださるようになってきました。

 そこで、来ていただいたみなさんには、可能なかぎりお茶三昧をしていただくようにしていますが、最近では、煎茶やほうじ茶などと並んで、抹茶も飲んでいただくようになってきました。

 その時、普通は、妻か私が抹茶を点ててお出しするのですが、二人ともまったくの素人であるため、本当に適当なやりかたで、“なんちゃってまっちゃです”なんて言いながらお出ししています。

 ところが、お客様のなかには、作法を習われたことのある方がけっこう多くおられ、そういう時には、いろいろ教えていただいたりしています。

 そして、場合によっては、お客様にお願いして、抹茶を点てていただきます。

 ある時、いっしょに来られた方のなかに、一度も点てたことのない方がおられ、その方にも初体験として点てていただくことになりました。

 そうすると、なかなか思うように茶筅を動かせなかったり、お湯が飛び出したりと、少しトラブルも起こりましたが、それがすごく楽しくて、みんなでワイワイ盛り上がりながらのお茶会となりました。

 それを見ながら、私は、こういう風に、もっとみんなが遊び感覚で、楽しく抹茶を点てて飲めるようになるといいなと、つくづく思いました。

 良く考えてみれば、正式な道具がなくても、茶筅(千円くらいで買える)さえあれば、後はいろんな代用品で抹茶を飲むことができます。

 茶の湯の文化として育まれてきた作法や形式の素晴らしさを否定したり、軽視したりするつもりはありませんが、一方では、こういった気軽な楽しい飲み方がもっと普及するといいなと思います。

 京都なごみ園としても、そんなことを、様々な機会にお伝えしていければと思います。

奪わない農業  金の卵を産む鶏(2010年7月8日)

 が住む 宇治茶の主産地・和束町では いま2番茶刈りの真っ最中です。

 お茶は、5月に1番茶(新茶 初茶)を刈り、その後新たに芽吹いた新芽を6~7月に2番茶として収穫します。

 その2番茶が、ここ和束町では大きな異変に見舞われています。

 それは、いつものように芽が伸びてくれない、例年どおり農薬をやっいても害虫が発生する、お茶の木自体が弱ってきている、といった現象としてあらわれているようです。

 そのため、今年は多くの農家で収量が大幅に少なくなり、品質もわるくなり、デフレ不況ともあいまって販売価格が低下し、かなりの収入減となるもようです。

 だだでさえ収入の少ない今の農家にとって、さらなる減収は大きな痛手となります。まわりの農家からは悲鳴にも近い嘆き声が聞こえてきます。

 
 そんななかで 私の無肥料・無農薬のお茶畑はまったく虫の被害もうけず、新しい2番茶の新芽が元気にすくすくと育っています。

 ただ私は、4年前に自然農のお茶づくりに切り替えてからは、2番茶は収穫しないことにしています。

 それは、5月に一度新芽を収穫してからようやく伸びた新芽を、引き続きまた刈り取ってしまうことは茶樹に大きな負担を強いることになると思うからです。

 2番茶を収穫しない分たしかに収入は減りますが、お茶の木が受けるストレスを減らし、年間をとおして健康に過ごせるように世話をしてあげるうえで、このことはすごく大切なことだと感じています。

 
 実際、2番茶を刈らないでやると、お茶の木は夏から秋にかけてぐんぐん枝を伸ばし、その枝も太くなり、葉の量も大変多くなります。
 そして、その葉で夏の太陽の光をいっぱい浴びながら盛んに光合成をし、できた養分を株や根に貯えます。
 また、枝が上に長く伸びる分、根が地中深く伸びることができ、根張りも拡がります。

 翌年の春には、その力で新芽を伸ばしてくれるので、そのほうが茶葉の量が増え、品質の良い新茶が得られることになるのです。


 しかし一般的なお茶の栽培では、そういう自然な茶樹の生育サイクルは無視され、2番茶、さらに3番茶(秋番茶)とより多くの茶葉を収穫する方法がとられてきました。
 そのために、より多くの肥料が施されるようになり、そのことによる害虫の発生を防ぐために、農薬の散布回数も多くなっていきました。

 確かに見た目では、多肥・多農薬のお茶栽培のほうが茶樹の生育も旺盛で、収量も多く、茶葉の色も濃い緑で品質の良いものができるように見えます。
 
 また、農協などに出荷して高く販売するためには、どうしてもそのような栽培法にしていかなければならなかったという面もあったと思います。

 
 私の父も、そのような高度成長期から現代までの近代化路線のお茶づくりを担ってきた一人でした。
 朝早くから夜遅くまで一生懸命働き、よりたくさんの収入をあげることを目指して、与える肥料の量をどんどん増やしていき、病害虫に侵されないように定期的に農薬を散布し、良いお茶をつくってまわりの農家よりも少しでも高く売れることを誇りとして農業に取り組んできました。

 ‘農業では食べていけない’‘農業なんて割があわない’と多くの農家が農業をやめていき、跡取りの息子がサラリーマンとなっていた時代に(私もその一人でした)、このような路線のもとに農業に踏みとどまり頑張ってきてくれた人たち、そして農業を継いだ数少ない若者たち、そういう人たちのお陰でこの地域の農業が維持されてきたのでした。

 
 しかし、この地域での2番茶の大幅減収という今年の事態は、このような農業のあり方の行き詰り現象のひとつの現われではないかと思えるのです。


 しかし、見方を変えれば、いま本格的な転機が訪れていると言える思えます。
 農家にとっては非常に厳しいことだけれど、こうして追いつめられていく事態のなかで、今こそ自分の農業のあり方を考え直してみる機会が与えられているのだと思います。

 ピンチをチャンスの変えていくためには何が必要か、農業の原点とは何なのか、そして特に若者には将来自分はどういう農業者となっていきたいか、そんなこをじっくりと考えてみてほしいと思います。


 私は以前、多肥・多農薬のお茶づくりへとつき進んでいく地域の農業をみていて、子供の時に読んだ童話「金の卵を産む鶏」の話とよく似ているなと思ったことがありました。

 そのお話の内容は、次のような感じだったと思います。
 
 ある人が金の卵を産む鶏を飼っていました。その鶏は必ず毎日1個ずつ卵を産んでくれます。そのお陰で、その人は卵を売って生計をたてていくことができました。
 しかし、そのうちに欲がでてきて、もっと多くの卵を得たいと思うようになり、その鶏のお腹を割いてみました。
 するとお腹からはひとかけらの金もでてこなくて、鶏は死んでしまい、ひとつも卵が得られなくなってしまいました。
 

 今の農家がそこまで思慮に欠けているというわけではないけれど、“より高く売れるものをより多く”という経済利益の追求は、農業の本来のあり方を大きく歪める側面をもっていると言えると思います。

 

 農業という職業をしていくうえで最も大切なものは何なのか?と、私は時々考えてみます。

 そして、その答えとして私自身は、作物への‘思いやり’や‘いたわり’の心ではないかと思っています。

 鶏が元気で生きていてくれてこその金の卵であるように、作物が元気でいてくれてこその農業です。

 その意味で、農業の原点とは、作物への愛だと言えると思うのです。

 
 私はこれからの農業のあり方を考えるとき、「奪う農業から与える農業への転換」という言葉がキーワードになると考えています。

 もちろん、与えるといっても、より良い肥料を与えるとか、より良い資材を与えるとかいったような物的な面からの視点ではありません。

 この点では、りんごの無農薬栽培で有名になられた青森県の木村秋則さんが口癖のように言っておられる“作物の身になって考える”ということが最も大切ではないかと思います。

 それは、作物の声を聴く努力をし、本当に作物の身になって世話をしてあげられたとき、作物もまた“自然の恵み”として、より大きなプレゼントを私たちに与えてくれるようになると確信しているからです。

 そのプレゼントとはきっと、金の卵のようなものではないでしょうか?


 この童話は、本当に大切なことを私たちに教えてくれているように思います。

 金の卵を産む鶏とは、自然そのもの、地球そのものを表していると思います。


 奪わない農業、与える農業の視点から、もう一度いまの農業のあり方や栽培法などを見直していければと思います。


もっとも大切な「仕事」とは?(2010年3月7日)

 エイブラハムが伝えてくれる「引き寄せの法則」が好きで、何度も本を読み返しています(ソフトバンククリエイティブ『引き寄せの法則の本質』など)。
 
 エイブラハムが教えてくれることのなかで大切なことのひとつは、‘ない’という意識の場所から「行動」をすると、その状態を逆に継続させてしまうことになることが多いということです。

 農業でもこのことはすごく大切だと思うので、何かをしなければと思って「行動」するときに、自分はどういう動機で(意識で)その作業をしようとしているか、点検してみるように心がけています。
 それはともすれば、何かが足りない、不足している、このままではよくないといった、マイナスの意識からその対応をしたくなることがよくあるからです。

 今日もそんな葛藤を少し感じました。
 こうして暖かくなって春めいてくると、まわりの在来農法のお茶畑はだんだんと青みをましてきて、新芽の準備も進み、元気に発育をはじめだしたように見えます。

 それに比べると、まだ私の自然農のお茶畑は冬の状態に近く、色も茶色のままで、‘遅れている’ように見えてきます。

 そんな時、やはり「肥料を与えないと今年は十分に育ってくれないのではないか」などといった心配が浮かんできます。

 ただ、今はすぐに気がつけます。
 それは、まだ自分には「植物を育てるには肥料が必要」という観念がしっかりと根付いていることを教えてくれているのだということです。
 たぶん、この観念にエネルギーを与える(不安感情とともに意識を向け続ける)と、そのことが現実化していくのだと思います。

 でも今の私は「肥料を与えなくてもきっと大丈夫。むしろそのほうがもっと良いお茶がつくれる」と思えるようになってきました。

 それはこれまで、川口さの30年に及ぶ実践や畑の様子から学ばせていただいてきたことや、多くの先進例を見てきたこと、そして自分のこの3年間の経験などからも確信がもてるようになってきたからです。

 特にお茶の木は、本来たくましい生命力を備えた樹木だといえます。
 森の木々が誰も肥料を与えないのに生き生きと育っていくように、お日さまや雨風や、土中の微生物など様々な自然の力や循環のエネルギーのなかで、植物は元気に育っていきます。
 その循環がスムーズに行われるように気を配ってあげること、最低限の手をかしてあげること、そんなことが人間の役割といえるのかもしれません。

 まず植物には本来備わった生命力があること、自然には植物を元気に育てるエネルギーが存在していること、そのことをもっと信頼していくことが大切だと思います。

 エイブラハムの「引き寄せの法則」では、今ある現実の中に、‘望ましいもの’‘自分が見たいもの’に意識を向けていくことが引き寄せのコツだと強調されています。

 そうだとするならば、日々畑のなかで、植物や自然のもつ生命力の逞しさ、美しさといったプラスのエネルギーに意識を向け続けられる人でありたいなと思います。
 
 農業を行う者として、そのことが最も大切な「仕事」だと言えると思います。言葉を換えれば、農作業のなかに、喜びや感謝できることを数々発見し、植物や自然に愛をもって接していくこと、それが農業という仕事の本来の姿だと言えるのではないでしょうか。
 それができているかどうかということではなく、日々心がけ、実行していきたいです。

 


スロー農業(2010年2月22日)

よしあきです。
今日から、私も、少しずつブログを書いていこうと思いますので、よろしくお願いします。

 「スローライフ」という言葉が市民権を得てきて、実践される方が増えてきていることは大変嬉しいことですね。

 ゆっくりと自分のペースで生きていくこと、それは今まで何か罪悪感をともなって考えられることだったけれど、それでもいいのだということが認められるようになってきた感じがします。

 そして、今の私の本業である農業も、「スロー農業」にしていければいいなと思います。
私にとって「スロー農業」とは、“ありのままの状態を認め、肯定的する農業”ということになると思います。

 農業をする時、どうしても「より多く、よりいいものを」と思いがちですが、それは人間の要望(欲望)や都合を優先しすぎてしまう傾向があります。

 そういう点からみれば、「スロー農業」とは“求めすぎない農業”、あるいは“作物の状態に十分配慮する農業”ということになると思います。

 私自身も、作物がうまく育ってくれない時、いろいろな不安感がでてきます。そして、いったい何が悪いのだろうというふうに欠点や問題点探しの思考がはたらきだします。そして、原因がわかったときには解決法を考え、対処していくということになると思います。

 もちろん一般的にはそれでいいのだと思いますが、やはり内容によっては、それは本当にその作物にとって欠点や問題点だと言えるのかどうか、またその対処法は作物のために本当にいいことなのかどうか、立ち止まってゆっくりと考えてみることが大切だと思います。

 そして、場合によってはすぐに対処せず、しばらく様子をみてみる、あるいは見守ってあげるという“待ちの姿勢”というのが求められているように思います。

 たとえば、作物が期待どおりに大きく育ってくれない時、それはそれでいいと一旦受け入れてみます。そして、もっと肯定的な考え方はできないかと考えてみます。あるいは、この状況のなかで感謝できることはないかと考えてみます。

 そうして見方を変えてみると、いままでとは違ったものが見えてくることが多くあります。
たとえば、けっして肥えているとはいえないような不利な条件のなかでも、けなげに美しく生命を保っている姿が見えてきて、“もう一息だよ、頑張って!”と応援したくなってきたりします。そして、そこから生命をよりよい方向に進展させようとしている植物の「本能」のようなものが感じられたりすることもあります。
 そしてそんな時には、“きっと大丈夫、この作物はこの作物なりに、一番いい方向に成長してくれるだろう”と思えるのです。
 
 もちろんその上で、その作物の成長にとって本当に必要と思える(感じる)ことについては、心をこめて、惜しみなく手助けしてあげることは大切だと思います。
 けっして放置することがいいわけではなく、たとえば周りの草を刈って日当たりを良くしてあげるなど、その作物が心地よく育てるような作業が必要になってくることと思います。
 “声をかけることは肥をかけること”だとよく言われますが、そんなこともすごくいいですね。

 そうしてできた農産物は、常識的な目からはたとえ貧相なものに見えたとしても、本当は計り知れない価値があるものと言えるのではないでしょうか。たとえば、収量は半分になったとしても、その価値は十倍以上と言ってよいと思うのです。

 「スロー農業」という考え方を受け入れていくことによって、リスクもでてくるけれど、本当の農業とはどういうものかということについて考え直してみる機会も増えてくることと思います。
 作物の幸せを願いながら栽培し、結果をあせらず、多くを要求しすぎず、その栽培過程やできたものの価値に新たな光を見いだしていく、そんなことが「スロー農業」の基本になると思います。

 そしてその土台となるのは自分への信頼だと思います。自分を信頼し、作物を信頼し、自然を信頼し、宇宙を信頼する。それができたら、本当の意味で、自分が与えられた土地というキャンパスの上に、自然と人間との共同創造の作品をより楽しく、より豊かに生みだしていけるようになるのだと思います。


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