私が住む 宇治茶の主産地・和束町では いま2番茶刈りの真っ最中です。
お茶は、5月に1番茶(新茶 初茶)を刈り、その後新たに芽吹いた新芽を6~7月に2番茶として収穫します。
その2番茶が、ここ和束町では大きな異変に見舞われています。
それは、いつものように芽が伸びてくれない、例年どおり農薬をやっいても害虫が発生する、お茶の木自体が弱ってきている、といった現象としてあらわれているようです。
そのため、今年は多くの農家で収量が大幅に少なくなり、品質もわるくなり、デフレ不況ともあいまって販売価格が低下し、かなりの収入減となるもようです。
だだでさえ収入の少ない今の農家にとって、さらなる減収は大きな痛手となります。まわりの農家からは悲鳴にも近い嘆き声が聞こえてきます。
そんななかで 私の無肥料・無農薬のお茶畑はまったく虫の被害もうけず、新しい2番茶の新芽が元気にすくすくと育っています。
ただ私は、4年前に自然農のお茶づくりに切り替えてからは、2番茶は収穫しないことにしています。
それは、5月に一度新芽を収穫してからようやく伸びた新芽を、引き続きまた刈り取ってしまうことは茶樹に大きな負担を強いることになると思うからです。
2番茶を収穫しない分たしかに収入は減りますが、お茶の木が受けるストレスを減らし、年間をとおして健康に過ごせるように世話をしてあげるうえで、このことはすごく大切なことだと感じています。
実際、2番茶を刈らないでやると、お茶の木は夏から秋にかけてぐんぐん枝を伸ばし、その枝も太くなり、葉の量も大変多くなります。
そして、その葉で夏の太陽の光をいっぱい浴びながら盛んに光合成をし、できた養分を株や根に貯えます。
また、枝が上に長く伸びる分、根が地中深く伸びることができ、根張りも拡がります。
翌年の春には、その力で新芽を伸ばしてくれるので、そのほうが茶葉の量が増え、品質の良い新茶が得られることになるのです。
しかし一般的なお茶の栽培では、そういう自然な茶樹の生育サイクルは無視され、2番茶、さらに3番茶(秋番茶)とより多くの茶葉を収穫する方法がとられてきました。
そのために、より多くの肥料が施されるようになり、そのことによる害虫の発生を防ぐために、農薬の散布回数も多くなっていきました。
確かに見た目では、多肥・多農薬のお茶栽培のほうが茶樹の生育も旺盛で、収量も多く、茶葉の色も濃い緑で品質の良いものができるように見えます。
また、農協などに出荷して高く販売するためには、どうしてもそのような栽培法にしていかなければならなかったという面もあったと思います。
私の父も、そのような高度成長期から現代までの近代化路線のお茶づくりを担ってきた一人でした。
朝早くから夜遅くまで一生懸命働き、よりたくさんの収入をあげることを目指して、与える肥料の量をどんどん増やしていき、病害虫に侵されないように定期的に農薬を散布し、良いお茶をつくってまわりの農家よりも少しでも高く売れることを誇りとして農業に取り組んできました。
‘農業では食べていけない’‘農業なんて割があわない’と多くの農家が農業をやめていき、跡取りの息子がサラリーマンとなっていた時代に(私もその一人でした)、このような路線のもとに農業に踏みとどまり頑張ってきてくれた人たち、そして農業を継いだ数少ない若者たち、そういう人たちのお陰でこの地域の農業が維持されてきたのでした。
しかし、この地域での2番茶の大幅減収という今年の事態は、このような農業のあり方の行き詰り現象のひとつの現われではないかと思えるのです。
しかし、見方を変えれば、いま本格的な転機が訪れていると言える思えます。
農家にとっては非常に厳しいことだけれど、こうして追いつめられていく事態のなかで、今こそ自分の農業のあり方を考え直してみる機会が与えられているのだと思います。
ピンチをチャンスの変えていくためには何が必要か、農業の原点とは何なのか、そして特に若者には将来自分はどういう農業者となっていきたいか、そんなこをじっくりと考えてみてほしいと思います。
私は以前、多肥・多農薬のお茶づくりへとつき進んでいく地域の農業をみていて、子供の時に読んだ童話「金の卵を産む鶏」の話とよく似ているなと思ったことがありました。
そのお話の内容は、次のような感じだったと思います。
ある人が金の卵を産む鶏を飼っていました。その鶏は必ず毎日1個ずつ卵を産んでくれます。そのお陰で、その人は卵を売って生計をたてていくことができました。
しかし、そのうちに欲がでてきて、もっと多くの卵を得たいと思うようになり、その鶏のお腹を割いてみました。
するとお腹からはひとかけらの金もでてこなくて、鶏は死んでしまい、ひとつも卵が得られなくなってしまいました。
今の農家がそこまで思慮に欠けているというわけではないけれど、“より高く売れるものをより多く”という経済利益の追求は、農業の本来のあり方を大きく歪める側面をもっていると言えると思います。
農業という職業をしていくうえで最も大切なものは何なのか?と、私は時々考えてみます。
そして、その答えとして私自身は、作物への‘思いやり’や‘いたわり’の心ではないかと思っています。
鶏が元気で生きていてくれてこその金の卵であるように、作物が元気でいてくれてこその農業です。
その意味で、農業の原点とは、作物への愛だと言えると思うのです。
私はこれからの農業のあり方を考えるとき、「奪う農業から与える農業への転換」という言葉がキーワードになると考えています。
もちろん、与えるといっても、より良い肥料を与えるとか、より良い資材を与えるとかいったような物的な面からの視点ではありません。
この点では、りんごの無農薬栽培で有名になられた青森県の木村秋則さんが口癖のように言っておられる“作物の身になって考える”ということが最も大切ではないかと思います。
それは、作物の声を聴く努力をし、本当に作物の身になって世話をしてあげられたとき、作物もまた“自然の恵み”として、より大きなプレゼントを私たちに与えてくれるようになると確信しているからです。
そのプレゼントとはきっと、金の卵のようなものではないでしょうか?
この童話は、本当に大切なことを私たちに教えてくれているように思います。
金の卵を産む鶏とは、自然そのもの、地球そのものを表していると思います。
奪わない農業、与える農業の視点から、もう一度いまの農業のあり方や栽培法などを見直していければと思います。
エイブラハムが伝えてくれる「引き寄せの法則」が好きで、何度も本を読み返しています(ソフトバンククリエイティブ『引き寄せの法則の本質』など)。
エイブラハムが教えてくれることのなかで大切なことのひとつは、‘ない’という意識の場所から「行動」をすると、その状態を逆に継続させてしまうことになることが多いということです。
農業でもこのことはすごく大切だと思うので、何かをしなければと思って「行動」するときに、自分はどういう動機で(意識で)その作業をしようとしているか、点検してみるように心がけています。
それはともすれば、何かが足りない、不足している、このままではよくないといった、マイナスの意識からその対応をしたくなることがよくあるからです。
今日もそんな葛藤を少し感じました。
こうして暖かくなって春めいてくると、まわりの在来農法のお茶畑はだんだんと青みをましてきて、新芽の準備も進み、元気に発育をはじめだしたように見えます。
それに比べると、まだ私の自然農のお茶畑は冬の状態に近く、色も茶色のままで、‘遅れている’ように見えてきます。
そんな時、やはり「肥料を与えないと今年は十分に育ってくれないのではないか」などといった心配が浮かんできます。
ただ、今はすぐに気がつけます。
それは、まだ自分には「植物を育てるには肥料が必要」という観念がしっかりと根付いていることを教えてくれているのだということです。
たぶん、この観念にエネルギーを与える(不安感情とともに意識を向け続ける)と、そのことが現実化していくのだと思います。
でも今の私は「肥料を与えなくてもきっと大丈夫。むしろそのほうがもっと良いお茶がつくれる」と思えるようになってきました。
それはこれまで、川口さの30年に及ぶ実践や畑の様子から学ばせていただいてきたことや、多くの先進例を見てきたこと、そして自分のこの3年間の経験などからも確信がもてるようになってきたからです。
特にお茶の木は、本来たくましい生命力を備えた樹木だといえます。
森の木々が誰も肥料を与えないのに生き生きと育っていくように、お日さまや雨風や、土中の微生物など様々な自然の力や循環のエネルギーのなかで、植物は元気に育っていきます。
その循環がスムーズに行われるように気を配ってあげること、最低限の手をかしてあげること、そんなことが人間の役割といえるのかもしれません。
まず植物には本来備わった生命力があること、自然には植物を元気に育てるエネルギーが存在していること、そのことをもっと信頼していくことが大切だと思います。
エイブラハムの「引き寄せの法則」では、今ある現実の中に、‘望ましいもの’‘自分が見たいもの’に意識を向けていくことが引き寄せのコツだと強調されています。
そうだとするならば、日々畑のなかで、植物や自然のもつ生命力の逞しさ、美しさといったプラスのエネルギーに意識を向け続けられる人でありたいなと思います。
農業を行う者として、そのことが最も大切な「仕事」だと言えると思います。言葉を換えれば、農作業のなかに、喜びや感謝できることを数々発見し、植物や自然に愛をもって接していくこと、それが農業という仕事の本来の姿だと言えるのではないでしょうか。
それができているかどうかということではなく、日々心がけ、実行していきたいです。
よしあきです。
今日から、私も、少しずつブログを書いていこうと思いますので、よろしくお願いします。
「スローライフ」という言葉が市民権を得てきて、実践される方が増えてきていることは大変嬉しいことですね。
ゆっくりと自分のペースで生きていくこと、それは今まで何か罪悪感をともなって考えられることだったけれど、それでもいいのだということが認められるようになってきた感じがします。
そして、今の私の本業である農業も、「スロー農業」にしていければいいなと思います。
私にとって「スロー農業」とは、“ありのままの状態を認め、肯定的する農業”ということになると思います。
農業をする時、どうしても「より多く、よりいいものを」と思いがちですが、それは人間の要望(欲望)や都合を優先しすぎてしまう傾向があります。
そういう点からみれば、「スロー農業」とは“求めすぎない農業”、あるいは“作物の状態に十分配慮する農業”ということになると思います。
私自身も、作物がうまく育ってくれない時、いろいろな不安感がでてきます。そして、いったい何が悪いのだろうというふうに欠点や問題点探しの思考がはたらきだします。そして、原因がわかったときには解決法を考え、対処していくということになると思います。
もちろん一般的にはそれでいいのだと思いますが、やはり内容によっては、それは本当にその作物にとって欠点や問題点だと言えるのかどうか、またその対処法は作物のために本当にいいことなのかどうか、立ち止まってゆっくりと考えてみることが大切だと思います。
そして、場合によってはすぐに対処せず、しばらく様子をみてみる、あるいは見守ってあげるという“待ちの姿勢”というのが求められているように思います。
たとえば、作物が期待どおりに大きく育ってくれない時、それはそれでいいと一旦受け入れてみます。そして、もっと肯定的な考え方はできないかと考えてみます。あるいは、この状況のなかで感謝できることはないかと考えてみます。
そうして見方を変えてみると、いままでとは違ったものが見えてくることが多くあります。
たとえば、けっして肥えているとはいえないような不利な条件のなかでも、けなげに美しく生命を保っている姿が見えてきて、“もう一息だよ、頑張って!”と応援したくなってきたりします。そして、そこから生命をよりよい方向に進展させようとしている植物の「本能」のようなものが感じられたりすることもあります。
そしてそんな時には、“きっと大丈夫、この作物はこの作物なりに、一番いい方向に成長してくれるだろう”と思えるのです。
もちろんその上で、その作物の成長にとって本当に必要と思える(感じる)ことについては、心をこめて、惜しみなく手助けしてあげることは大切だと思います。
けっして放置することがいいわけではなく、たとえば周りの草を刈って日当たりを良くしてあげるなど、その作物が心地よく育てるような作業が必要になってくることと思います。
“声をかけることは肥をかけること”だとよく言われますが、そんなこともすごくいいですね。
そうしてできた農産物は、常識的な目からはたとえ貧相なものに見えたとしても、本当は計り知れない価値があるものと言えるのではないでしょうか。たとえば、収量は半分になったとしても、その価値は十倍以上と言ってよいと思うのです。
「スロー農業」という考え方を受け入れていくことによって、リスクもでてくるけれど、本当の農業とはどういうものかということについて考え直してみる機会も増えてくることと思います。
作物の幸せを願いながら栽培し、結果をあせらず、多くを要求しすぎず、その栽培過程やできたものの価値に新たな光を見いだしていく、そんなことが「スロー農業」の基本になると思います。
そしてその土台となるのは自分への信頼だと思います。自分を信頼し、作物を信頼し、自然を信頼し、宇宙を信頼する。それができたら、本当の意味で、自分が与えられた土地というキャンパスの上に、自然と人間との共同創造の作品をより楽しく、より豊かに生みだしていけるようになるのだと思います。